人が人を「評価する」(valuation)時には、大きく分けて2つのことをしています。
1つ目は、ものの価値を測定する(assessing)という側面、
2つ目は、ものに価値を与える(giving value)という側面です。
たとえば、学校でペーパーテストを使って成績評価をするとき、僕たち教員は、
そのテストによって学生の「理解度」や「知識量」を「測定」しています。
物差しをつかって「長さ」をはかるのと同じように、テストを使って「理解度」
やら「知識量」を「測って」いるわけです。
ただ「評価する」ことにはもう1つ、「価値を創りだす」という重要な役割があります。
この点は、以外と理解されていない。
テストによる成績評価は、優秀な学生を特定すると同時に、ある学生は「優秀である」、
ある学生は「優秀でない」といった形で、学生を序列化することにもつながるのです。
例えば僕が、数学のテストによって学生を評価するとき、僕が数学ができる学生を
「優秀である」とみなすわけですが、僕がもし体育のテストによって学生を評価すれば、
また別の学生が「優秀である」ということになるかもしれない。
このようにある特定の方法によって、特定の基準で「評価」されるからこそ、学生たちは
「優秀である」ということになるわけで、「評価」の基準が違えば、今度は全く別の人が
「優秀」になることだってありうるのです。
その意味で、「評価する」ということは、人材の「価値を創り出す」ことでもある、と。
採用にも、同じことが言えるでしょう。
たとえば「面接でコミュニケーション能力を評価する」という行為は、
①その人のコミュニケーション能力を測るだけでなく、
②コミュニケーション能力がある人を「優秀な人」に、それがない人を「優秀でない人」
にしてしまう行為、
でもあるわけです。
「優秀な人を見抜くこと」が採用の目的だと思われがちですが、採用が「優秀な人」を
作り出してしまっているという側面もあると。
そう考えていくと、2016年卒採用において採用活動の革新の挑戦した企業の多くが挑戦したのは、
まさにこの「新しい優秀さ」の創造だと評価することもできます。
多くの日本企業が同じような採用活動を行っている中で、一部の企業からは、
これまでとは異なった「優秀さ」に注目する採用が生まれました。
たとえば新潟県に本社を置く三幸製菓(米菓メーカー)が生み出したのは、
17種類もの選考パタンの中から、求職者の適性に合わせた選考スタイルが選択されるという
「カフェテリア採用」。
「おせんべい採用」「キャプテン採用」「ニイガタ採用」といった17種類すべての選考が、
「水平的な集団主義」「曖昧さの享受と統制」といった自社独自の人材要件に対応しており、
各選考では、独自の手法によって、求職者がこうした要件を持ち合わせているかどうか
ということが評価される採用です。
こうした採用を行うことで同社は、面接や適性検査に大きく依拠したこれまでの採用では
「優秀」と評価されにくかった人材を「優秀」な人材だと評価することになり、
結果として、満足のいく採用ができるようになったと言います。
「我が社にとって優秀さとはいったい何を指すのか」
「我が社の採用は、どんな優秀さを測るためのものか」
「同時に我が社は、どのような求職者を『優秀である/優秀でない』とみなしているか」
・・・・・こうした問題について、すべての企業がとことん考えるべき時期に来ているのかもしれません。